住宅コラム

住宅あれこれ

隣の家とは違う家

数年前、世界遺産になっている岐阜県の白川郷に行く機会があり、一泊してきました。どの家も同じ形態の住宅が密集していて、独特な美しい景観をつくり出していました。また、雑誌等で見るしかないのですが、ヨーロッパの古い町も同じような住宅が集落をなしていて、美しい景観をつくっています。それは、「地場の材料を用いて、地元の職人が、地域の気候風土に適した工法で建設する」といった当時としてはごく当たり前な地産地消が、このような独特の景観を生み出しているのです。しかし、実際は貧しさゆえにそれしか選択の余地がなかったからではないでしょうか。
現代は、豊富な建材の中から好きな建材を採用し、世界中の情報の中から建主の思いのままの住宅を手に入れることが可能になっています。その反面、地域全体で前段で述べた様な景観を作り出せなくなっています。不思議なことに、同じ建材を用いて、同じ工務店が、同じ工法で建設した住宅地の景観(?)を私達は美しいとは感じません。それは人工的な建材と自然の建材の違いもあると思いますが、何よりもそこに地域を感じるものが欠けているからだと思います。また、高度成長時代やバブル最盛期は、押せ押せムードに強く影響されたのかもしれませんが、隣の住宅とは違う住宅を望み、しかも目立つ住宅を希望する建主が非常に多くいました。その結果、景観に対する配慮が全くなされていない住宅が数多く建設されることになったのです。
高度成長期を経てバブルの崩壊も経験し、落ち着きを取り戻した現在、個々の住宅の資産価値が問われるようになりました。住宅の資産価値は、当然その住宅を含めた地域の景観によっても左右されます。そんな意味からも地域全体で景観に配慮した住宅づくりが、これから求められると思われます。
豊富な建材と豊富な情報の中から、それぞれの地域の中で一定のコンセプトのコンセンサスを得て、景観を創り上げていく作業は大変ですし、そのための手法も現在は整備されていません。そんな状況ですが、地域のコンセンサスを得られるような住宅づくりを設計者と建主が協力して始めていくしかないと思われます。そして、それには少なくても隣の家との違いを強調するのではなく、どこかをあわせて協調しなくてはなりません。目立つのではなく、可能な限り地産地消で、景観に溶け込むような住宅を建てていくしかないと考えるのです。

隣の家とは違う家

昭和62年、カナダのエドモントンでホームステイをする機会を得ました。
玄関ドアを開けると、すぐカーペットが敷きこまれている居間に続きます。
家の中でも土足なので日本流の玄関がないのは頭の中では理解していたのですが、ちょっとショックでした。
しかも、家のオーナーから靴を脱ぐように指示されたのです。
きっと、カーペットを新調したばかりだったのでしょう。居間に入って靴を脱ぎ、はだしで歩き回ることになりましたが、どこか違和感がありました。

そして、その後の平成5年にはアメリカのオレゴン州の小さな町の家に一週間のホームステイをする機会を得ました。
この時は家の中も靴で歩き回る住宅でした。与えられた部屋のベッドに腰掛けてスリッパに履き替えたのですが、家の中でくつろげる所がベットの上しかないことに改めて気付かされました。

両方の住宅に共通していることは、内開きの玄関ドアということです。
外部から直接居間に入るのですが、その玄関ドアが内開きなのです。
日本では考えられませんが、欧米の住宅の玄関ドアは内開きが多いのです。
欧米では一歩下がらないと入室できない外開きのドアは、訪問者に対して失礼になるからだそうです。
それなのに、日本の住宅は決まって外開きです。この違いには雨仕舞や防犯、災害時の避難、あるいは狭い玄関と諸説色々ありますが、私は日本独特の住宅に対する考え方の違いが現われているように感じます。

内開きの玄関ドアには、どんな訪問者でも家の中に気楽に入ってもらうメッセージを感じます。
その一方で、外開きの玄関ドアには、知らない訪問者に対して入室を拒否するメッセージを感じるのです。
このメッセージの違いは、住宅はくつろぎの場ととらえる日本人と、社交の場ととらえて、くつろぐのはベッドの上だけと考える外国人との違いに現れているように思われます。
さらに、いやな訪問者に対して、毅然として家から出ていくようにいえる外国人と、そうでない日本人の違いも現れています。

日本には古くから「鬼は外、福は内」の考え方があります。昔、引き違いの玄関戸だった頃は、鬼も福も玄関までは入ることができました。
しかし、洋風化や断熱の観点から玄関ドアを導入するに当たって外開きにしたのは、とにかく鬼を家の中に入れたくない気持ちの表れだったように思うのです。
その気持ちの表れが福も入りずらい閉鎖的な最近の住宅になっているように思われてなりません。

隣の家とは違う家

外国の住宅には玄関がないので、当然、高低差はありません。
つまり、訪問者と住宅の住人の目線の高さは同じです。
しかし、日本の住宅には玄関があり高低差があります。住人が訪問者を見下ろすような構造になっています。
昔、玄関の戸が引き違いだった頃の住宅は、玄関の土間の高さと住宅内部の床の高さには45cm以上の高低差がありました。
現在は大体15cmくらいですから3倍ほどあったのです。

高温多湿の日本の住宅では必然的に床の高さが必要であり、その高さの高低差が玄関に現れてきていたのです。
この高低差を利用して「鬼は外、福は内」の儀式を行っていたのだと思います。
鬼を外に追い出すためには高い所から威厳を示す必要があったし、気心の知れた人は家の中に失礼が無いように招き入れる必要がありました。その為の舞台装置が玄関の高低差だったのです。

ところが、住宅も布基礎が標準化し洋風化の影響を受けて、玄関ポーチで床の高さを上げることになりました。
そのため、玄関内部の高低差が15cm程度しか無くなってきたました。
それで、高い所からの威厳を示しずらくなり、とにかく部外者の訪問はお断りというメッセージをこめて、
外開きのドアが導入されてきたのでないかと考えています。

気心の知れた人だけ家に入れてくつろげる住宅を目指す日本人と、どんな人でも受入れて社交の場としての住宅をめざす外国人の違いは、文化の違いであり、どちらが優れているという問題ではないと思います。
しかし、昔の住宅には縁側がついており、気心の知れた近所の人なら気楽に訪問しやすい雰囲気をもっていました。
それが、今の住宅は気心の知れた人でも訪問しずらい住宅になっています。
それは、断熱の関係もあるでしょうし、物騒な社会情勢の関係もあるのでしょう。

昔の福は、訪問者の情報によってもたらせる事が圧倒的に多かったと思います。
しかし、今は新聞やテレビの他に電話・インターネット・Eメールなど福をもたらす手段が多くあり、訪問者をそれ程必要としてないのかもしれません。
だからと言って、訪問者との何気ない会話の中に福が秘められている事も事実で、おろそかにはできません。
とかく人間関係の希薄さがささやかれる現代ですが、せめて気心の知れた人達が気楽に行き来しやすい住宅を求めていく必要があると思います。
みなさんはどう思いますか?

  • よくあるご質問
  • 住宅コラム

お問い合わせ・ご相談

建替え・リフォーム・リノベーションをローコストで高品質なご提案を致します。ご相談は電話、メールでお気軽にお問い合わせ下さい。

お問い合わせ

このページの先頭へ